東京発信州経由大阪行 125ccスクーターと共に (1)
先日まで東京在住していた私だけれども、ミッションを終えて大阪に帰ることになった。
東京に行くときにも、奈良から125ccのヤマハ・アクシストリートで、途中2泊して行ったもんなんだけど、帰るときにも当然乗って帰る。
行きは東海道経由で箱根を越えて東京入りしたのだが、帰りは甲州街道から飯田街道、途中で山越えて中山道に入って名古屋に抜けるコース。
結果的には、城跡や偶然出くわしたスポットを満喫しながら、おおむね快適な気温と気持ちいい晴れ間の中、楽しく旅行できた。下道なら甲州街道は快走だったし楽しかった。
125ccで東海道or甲州街道
125ccスクーター(原付二種)というのは、どうにも道路交通法でちょっと難しい位置に置かれる。原付自転車だから、高速道路はもちろんのこと、自動車専用道路も通れない。一般道でも、高架などがよく原付通行禁止になっている。
しかし、Google Mapsのナビ機能は、原付二種に対応してくれない。だから、高速・有料道路除外オプションをつけたところで、自動車専用道路にどんどん誘導されてしまう。
国道1号線(東海道)では、愛知から静岡に入るあたりの潮見バイパスに誘導されまくるなど、ナビが混乱して不便で困る。
また箱根の山も苦しいところで、1号線は混む。二輪だからすり抜けりゃいいじゃないか、ともいうけれど、それができないような道幅。かといって自動車専用の箱根新道に逃げることもできない。
小田原側に抜けてやっとやっと動き出したと思ったら、道なりにまっすぐ走るとこんな酷いところに突っ込む。私もこの罠を踏んだ。
国道20号線(甲州街道)だったら、125cc規制によって混乱することはなかった。
道もおおむね快走路で、たまに市街地でちょっと混む程度。走ったのが平日だったせいもあるけど。
難点は、アクシストリートだと全開にしても60km/hを下回るような上り坂になるところがあり、道幅も狭かったりするとトラックに煽られ倒したりする。
しかしまあ、これは現在市販されている国産125ccスクーターでおそらく一番遅いアクシストリートだからかもしれない。
旅程一日目: 東京→甲府
引越のサカイに荷物を引き渡し、部屋の掃除を軽く済ませて、午後2時頃に出発。
逆に渋滞を増加させたとウワサのバスタ新宿を横目に甲州街道ひた走り。
とはいえ、出発時間をなかなか定められなかったから宿の予約もしてない状態、飛び込みで宿がとれそうなとこまでは行きたい。甲府ならきっとお館様がなんとかしてくれる。
でまあ、日のあるうちはまだ東京都内の街らしいところを走っていて、多摩御陵のあたりではすでに日が落ちていた。早めに出られたら八王子城跡とか滝山城跡に寄り道しようと思ってたのだけど、遅い。
大月の猿橋くらいは見ていってよかったかなと今更思うも、そういうのがあると知ったのが交差点の案内板で、そして急遽右折するには気付くのが遅かった。
8時頃に甲府着。駅前のホテルに飛び込んでみると、空いたところがあったので宿泊。とはいえ一軒目は満室だったから、休日とかだと危なかったか。
せっかく甲府だからほうとう食うかー、と、ホテル近くに見つけていた「ちよだ」というお店に。
されど「ほうとうは30分位かかる」と無情な張り紙。腹減っていたので、湯盛りうどんというものを頼んでみた。
湯盛りうどん。平たいうどん族。 pic.twitter.com/gnz6td2CDp
— 無謀庵 (@Mubouan) October 11, 2016
ほうとうは、この平たい麺を、野菜の味噌汁で煮込んだようなものであるそう。
そして甲斐には他に「吉田のうどん」といわれるものがあるらしく、これは四角くて硬いうどんに、醤油出汁(味噌もある)に油揚げと馬肉(最近は豚肉)をトッピング、というスタイル。
湯盛りはセパレート。麺はほうとうっぽいし、出汁は吉田のうどんっぽい。結構寒かったので温かいのにしたが、麺を冷たくしたスタイルは「おざら」というらしい。
出汁は野菜と油揚げ、豚肉らしいのも入って結構具が多い。ざるそばのつゆほど濃い味でもなく、また麺をざるに上げてしまっていないので、食べてるうちに出汁がゆるくなる。終盤はだいぶ薄味になって、ちびちび出汁をすすりながら食べる感じに。
なんというか素朴というか、日本で育って嫌いになるはずがない味ね。
量もまあ一玉くらいで多くも少なくもなく、ちと大男の私にはこれだけでは腹八分。
その後、甲府駅前をぶらぶらして、地酒のカップでもあったら買って、適当なつまみでホテルで一杯やろうかな……などと思ってみるも、なんというか、コンビニと飲み屋以外は8時に全部閉まってしまう感じ。外飲みの気分ではなかった。
仕方なくコンビニに入るも、地酒カップ置いてなし。惜しい。
旅程二日目の壱 甲府→新府
ホテルで眠って翌朝。
朝食はいつもパンなのだけど、ほうとうが出るとあったので、節を曲げた。炊き込みご飯にほうとうを合わせ、ちょっとサラダやソーセージがはいってとっ散らかったが。
甲府城
駅前にお館様の像がある。
甲府城は駅南すぐにあり、信玄公も南口にいるのだけど、甲府城って武田氏滅亡後にできた城で、信玄公の躑躅ヶ崎館があったのは北側なのだが……
ともあれ、城跡は舞鶴城公園として整備されている。
甲府城には天守はもう残っておらず、再建だと思うけど櫓があった。稲荷櫓だったかな。
天守こそないものの、石垣はよく残っている。これは本丸櫓の石垣。
城郭北部は中央線に削られてしまって、清水曲輪というあたりが失われた。西部の楽屋曲輪には山梨県庁がある。今の舞鶴城公園は、本丸・二の丸と東側の曲輪にあたるようだ。
天守台には上がれるようになっていて、なかなかの展望。これは東側で、山の上に山梨県立科学館が見える。南の方になだらかな斜面になってるあたりで、かつて甲府城の石切場になっていたらしい。
何が見えるかを教えてくれる看板があるのは当たり前ながら、それがコンピューターを使った3D地形マップになっているのがハイカラだった。まあ、建物を出さずに地形だけだから、南方の市街地にはあんまり役に立たない感じがあったけど。
鉄門。明治初年まで残っていたらしいけど、あいにくすべての建物が壊されて失われた。
基本的に在来工法で再現しているけど、現代の耐震基準などに照らすと現代工法も使わざるを得ない。できるだけコンクリートや鉄骨は目立たないようにするものの、しかし無理矢理隠すのもそれはそれで見苦しいので、見えてしまうところは見えるままにしているそう。真面目。
二の丸に来てみると、武徳殿が建っていた。山梨県警の武道場になっていて、剣道の準備をしていた。
なんだろう、随分格好のいい建物に見えるな。どっしりした力強い造りで。
躑躅ヶ崎館(武田神社)
甲府城を一回りして、ホテルをチェックアウト。アクシストリートに乗って、ちょっと甲州街道を外れて北へ。
信玄公時代に躑躅ヶ崎館があったところは、今は武田神社になっている。
由緒書きによれば、祭神はもちろん武田晴信命。しかし開いたのは意外と新しく、大正天皇の即位にあたって信玄公に従三位が追贈されて、それを機に神社の建立の動きが起こってできた。
古地図や縄張りを見せている看板もあるのが、さすが信玄公の館跡地だけはある。館といっても、連郭式の城みたいな縄張り。建った頃(信虎時代)にはもっと館らしかったのを、信玄公の頃には拡張されて城みたいにしたのだろうか。
城じゃなくて館を本拠とした信玄公、「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」という名言があって、「前線はともかく、甲府まで上杉や北条に攻め込まれる状態になってたらすでに負けてるのだから、この地では城を重視するよりも、人を集め活かすことこそ肝要」とでも言ってそうなイメージ。
でもなあ、この館は城ではないか、と言わざるをえない。
さらにいえば、政治を行う平地の居館と、戦の時に立てこもる詰の山城を使い分けるケースは、特にいわゆる戦国時代より古めの城にはよくある話。で、躑躅ヶ崎館にも、北側の山に要害山城という詰城がある。
そういうわけで、実際の信玄公は「人は人、城は城」ではなかろうか。
なんか狛犬が、妙に胸をふくらませている。これは何かわるものが侵入したら、火炎ブレスとか吐いてくるやつではないか。さすが信玄公を護るだけはあるな……
拝殿。
境内にはちょこちょこ、戦国時代から茶の湯に使っていた名水の井戸があり、水琴窟があり、太宰治が愛でて「春昼」に書いた桜なんてのもあった。
しかし私も若い頃は太宰にハマったもんだけど、「春昼」って知らないなと思ったら、ごく短いエッセイで新潮文庫には入っていない。読んでみたら、太宰のメンタルが一番健康的だった時期のものだけあって、肩の力が抜けて軽妙にトボけた冗談が散りばめられ、なんとも楽しい文章だ。
太宰が住んでいたところも、武田神社から甲府駅に向かう途中にあったらしい。ほんの八ヶ月の在住だけれども、おそらく教科書に載ることではメロスに次いで読まれている太宰作品であろう『富嶽百景』もここで書いた。富士には、月見草がよく似合う。
新府城
さて、ここから甲府を離れる。といっても、さほど遠くないところ、中央本線の新府駅近くにある新府城跡へ。
新府城へは、国道20号甲州街道ではなく、東側の県道17号線からアプローチする。当時はこちらが甲州街道だった。城跡の北東あたりに無料駐車場があるので、そこに停められる。
国道20号側は、かなり急峻な断崖になっている。今あちらから城に上がってこれるかどうかはわからない。こういう断崖を活かしての築城が武田流だったそうで、これで武田流の築城術の粋みたいな城ではあるらしい。
新府城というと、織田の甲斐進出を抑えきれない勝頼が、起死回生のための最後の城として建てたもの、と思っていた。
だけど実際のところは、山に囲まれた躑躅ヶ崎館じゃ手狭で、また信濃方面にも広がった領国を抑えるには、領国の中心地に近い甲府盆地北西部、それに駿河方面の街道とも交わる新府あたりがちょうどいい、ってことで、行政中心として開いたのが新府だそう。まあ、新府、っていうんだからそうだよなあ。
駐車場からすぐ、城の北側の堀あたりが見えるのだけど、なぜか掘りに張り出した小さな台地が築かれている。
武田の城にも新府城にしかない構造で、何のためのものかははっきりわかっていない。
五稜郭の尖った曲輪のように、広い方向に火力を向けられる鉄砲陣地だったんじゃないか、という話だけども、現地の看板によると、単に堀の水位を調整するためのダムみたいなものかも、とのこと。
現在の本丸跡には、藤武神社という神社がある。郭を辿っていく感じの道もあるけれども、神社の参道として一直線の階段もある。
急な上にめっちゃ長いけどな……。勝頼の野郎、ちょっと高く盛りすぎやないか……。
必死で登って、藤武神社。元々新府城の守護神として開かれていて、城が焼かれて捨てられた後にも地元の人が存続させていたそう。
さらに、勝頼公の霊社も建てられている。元禄の頃につくられたそうで、武田なきあとも地元の方には慕われていたようだ。
勝頼公霊社を中心に、ずらっと家臣たちの霊位も並ぶ。写真に写っている限りなので抜けがあるかもだけど、右から横田康景、甘利信康、土屋昌次、高坂助信、内藤昌豊、原昌胤、武田信実、(勝頼)、馬場信房、山県昌景、高坂昌澄、真田信綱、真田昌輝、小山田昌輝、五味貞氏。さらに両端には、長篠合戦での戦没者を祀る石碑があった。
躑躅ヶ崎館でも武田二十四将が紹介されていたりしたけど、ここで祀られているのは一世代下がるのがわかるね。
本丸跡……といっても、神社境内あたり一帯が本丸だが、看板は小さなお社の後ろにあった。
勝頼在城68日間、という寂しさ。
信玄公時代の猛将・小山田信茂が、織田の攻勢を受ける勝頼に、新府を捨てて信茂の岩殿山城へ移るよう進言した。岩殿山城は甲斐の東端だけど、要塞のような堅城だから立て籠もって抵抗するにはいいってんで勝頼はそうしたんだけど、信茂は自分で言っておいて勝頼到着前に裏切る。行き場を失った勝頼は、天目山で力尽きて自害。
新府城も、甲府城ができるのと入れ替わりに廃城になった。
帰りは神社の参道ではなく、二の丸・三の丸をたどるルートで降りてみたが、車も通れる道を作ってある以外は、どの曲輪も草が生い茂って足を踏み入れられない状態。
新府城跡が国指定史跡になったのは73年。一部に私有地もあったのを、韮崎市が管理団体になって公有化したのが86年。2005年から、史跡として調査や保存が始まっているとのこと。
石垣もつくらない土塁の城だけど、それにしては城郭の形はよく残っている気がする(どれくらいが修復されたものかはわからないが)。
滅び際の城ながら、地元の人に勝頼が愛されていた痕跡が見えるあたり、藤武神社を維持する体で、御城が保存されてきたのかもしれないなあ。
というところで、一旦記事を切る。長い。
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