バジルは引っ越しました

90年代のセカイ系中二病

投稿者: 無謀庵 / 2016年1月31日 - 21:36 / カテゴリー: 与太話

なぜだか3年も前のついーとがRTで回ってきて、興味深くも色々思うところがあった。

私はおよそ1980年生まれで、10代≒90年代という年頃なので、盗んだバイクで走り出す尾崎豊世代は少し上、強大な力が封印された右腕を持ってる邪気眼世代は少し下になる。

私世代の中二病といったら、エヴァンゲリオンを代表としたセカイ系的センスがそれだろうと思う。

セカイ系って言葉は21世紀入ってから流行ったけど、エヴァは95年のものだし、エヴァの頃にはああいう感じのセンスのものは大から小までたくさん出た。

セカイ系ってなんだか大層に語られていったけど、最大の共通点として、とりあえず世界が滅ぶ。東浩紀氏は、世界が滅ぶほどの大問題がヒロインと主人公の小さな関係性と直結してなんとかいってたけど、そのアカデミックな定義はおいといて、とりあえず世界が滅ぶのが最大の共通点だと思う。

例えば、シューティングゲームのバックストーリーでさえ、「人類を襲う強大な敵を勇ましく撃退する」というんじゃなくて、「すでに壊滅した人類の最後の抵抗として出撃する」みたいな方にいってたりする(RAYFORCEとかタイトー系はそんなん多かった)。

ただ、滅ぶ間際に、最後に少しだけでも、もはや意味がなくなっていようとも、美しい物を見せてくれればよかった。それがないとただ滅ぶだけの話になって物語にならない。ヒロインと主人公の小さな関係性って、その最後の小さく美しいものを演出するための仕組みとはいえるかもしれない。

そんな、世界が美しく散っていくような物語が、私の中二心に見事にフィットした。私の世代では、とりあえず世界がすぐ滅んでいた。

学校環境のこと

急に話が変わるようだけど、中二病の形成には、中学生ゆえの視野の狭さが必要じゃないかと思う。

私のちょっと上の世代は、70年代後半から80年代前半にかけて、尾崎豊聞きながら学校のガラスを割りまくるような、いわゆる校内暴力をやってた、と。なんでそんなことしてたか、当事者じゃないからわからないけれど。

その結果、教師がそれ以上の暴力で生徒を殴って脅して制圧する、いわゆる管理教育というのが流行った。

私の行った中学はほんとにクソで、校内暴力をそれ以上の暴力と軍隊式調練で制圧に成功したことで、近隣のモデルになってる中学だった。秋の運動会シーズンになると、一ヶ月前から放課後に全校生徒が招集され、太腿を水平まで上げる入場行進を一糸乱れずやるように、毎日毎日3時間4時間ずっと行進をやらされる。膝や手が低いとかズレてるとかがあれば、躊躇なく蹴り倒される。運動会とは、私らが教師に絶対服従していることを、行進をもってデモンストレーションする、屈辱的なイベントだった。

これは極端にしても、「無能で教師しか就職できる仕事がないから、教師でもやるか」なんていう「でもしか先生」なんてのがうじゃうじゃいて、そういうのが軽々しく生徒を殴り倒して咎められない環境に置かれれば、酷い学校はそこらじゅうにできていただろう。世代的にクソだったといっていいと思う。

その上、私は同級生にも家庭にも恵まれなくって、本当にあの頃は毎日が暗かった。

私もだいぶやられた口だけど、私らの世代はいじめで自殺者が出たりして、悪質化していた頃でもある。まあ、教師からあれだけ悪意に満ちた圧迫を受け続けていれば、教師に向かなくなった悪意は近場の同級生に向くだろうと思うけれど。

家庭環境もちょっと事情があって、良いとは言いがたい状態だった。内容的に外聞悪いのでいえないんだけど、外聞悪いようなことが起きていた。

そんなわけで、教師も同級生も家庭も、中学生の私にとっての世界のほとんどが酷かった。

この経験から、世界なんか滅べばいいのに、という意識が生まれて、それが中二病センスになった。

世界がクソだから戦って壊してやる、と思うには、あまりにも大人に屈服させられすぎて、戦う気力もなかった。世界がクソだからより良い世界に直していこう、と思おうにも、そんな愛着を持てる理由がなかった。

セカイが滅ぶ話は、まずそういう願望を叶えてくれる。

セカイ系の作品でセカイが壊滅してる、その理由ってあんまりまともに説明されないのもわかる。壊滅の理由を取り除いて世界を再興しよう、という作品なら、理由がちゃんとしてないといけないけれど、セカイ系はもうセカイはただ壊滅するべきで、下手に理由をつけては興が冷める。

現実の方では、セカイが滅びないという事実を突きつけられ続けていたからなおさら。冷戦が終わって最終核戦争も起きそうになくなった。都心にサリンが撒かれても、麻原が浅ましく情けなく逮捕されて終わった。神戸が地震で壊滅しても復興されていった。アメリカの中心にテロが起きても、アメリカは相変わらずアメリカだ。

中二病の変遷

尾崎聞きながらガラスを割りまくった中二病と、私らのセカイ系中二病って、担い手は全然違う。私が10年早く生まれていても窓ガラス割っていたとは思えないし、逆も想像しづらい。

けれども、尾崎中二病の連中のとばっちりで暴力教師が跋扈し、私らの学校生活がクソになって、セカイ系中二病に走った、という影響は受けてる。

これは自分が被害を受けたことだからわかるけれど、私らの後の世代がセカイ系を捨てて、いわゆる邪気眼中二病の方へ走っていったのはなんだろう。

私は尾崎なんかはもう、私の不幸の諸悪の根源だというくらい忌み嫌っているけれど、邪気眼世代の若い子たちも、私らのセカイ系をなにか憎んでいるだろうか。

「不良」とか「暴走族」という言葉に、カッコいいかのようなニュアンスが僅かに残ることすら気に入らず、「DQN」「珍走団」という言葉で塗り替えたのって、2000年頃っていうタイミングから見ても、私世代の仕業だろうと思う。セカイ系から尾崎的なノリへのバッシングはわりとはっきりある。

私らがセカイ滅べ滅べと妄想していたせいで、なにか邪気眼世代に迷惑をかけ、彼らに憎まれているだろうか。迷惑だクソセカイ系野郎、といった怒りの声は聞き覚えがないけど、なにしろこういう迷惑、かけた方からじゃ気付きにくい。

まあ、現にセカイ系が下火になっていった以上、憎悪しないまでも失望くらいはしてるようには思う。お前らがセカイ滅べ滅べといってても、俺への救いにはならなかったじゃないか、くらいはあるだろう。

中二病になるのに何の鬱屈もないはずがなく、その鬱屈はセカイ系では救われず、邪気眼には救われたんだろう。なら、私らとは鬱屈の種類が違うのか。

邪気眼の友達がいないから、どうも情報不足で想像できないな。どうなんだろう。


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